代表講師経歴
1988年 中学校入学 最初の英語のテストで
問題 : 次の日本語を英語に直しなさい
@ 車 ( kuruma ×) A りんご ( ringo ×) B 家 ( ie ×)
と自信満々に回答し 「それは日本語をローマ字で書いただけだよ。。」 と全く英語(外国語)自体を理解していないことを指摘され心の中で苦笑いする。若き直感で「Eigoなんて遥か彼方、海の向こうの異国の言葉であり、甲突川沿いに住む僕にはそれほど関係なし」と判断し中学生活の大半を暮れなずむ川浅瀬にてハヤを追ったり、徒然なるままに裏山にて秘密基地を作ることに費やす。
当時の(鹿児島の中学生は丸刈り強制)に強い反感を持ちつつ中学3年生の時にMichael J.Fox 主演 『 BACK TO THE FUTURE 』をテレビで観てしまい アメリカの何でも自由な雰囲気の学校生活と 日本の髪型すら不自由な学校生活との あまりの違いに衝撃を受け「自由な国、アメリカこそ僕が高校生活を送る場だ!」と確信し、若き魂に一気に火がつく。
その数ヶ月後 火がついたついでに夏休みを利用し『憧れの西海岸、夏のホームステイ Los Angelesの旅』へ出発する。L.A.へ向かう機内で早速覚えたての英語を試すべく日本人でない客室乗務員に飲みたくもない「コーヒー」を注文し何故か「毛布」をもらう。ずっと不思議に思っていたが数年後に、僕の「コーヒー」の発音が「Cold feet (冷たい足)」と聞こえたのでは?と気付く(正しい発音はCoffee「カフィ」)。 ロサンゼルス空港でホストファミリーの熱烈歓迎の出迎えを受け、第一声に「Nice to meet you !」と言うべきところを「See you again !」と言ってしまいせっかくの熱烈歓迎を凍りつかせたことにも気付かず、初めてのアメリカに大いに舞い上がる。Root Beer の不思議なフレイバーに驚きながら、1ヶ月の間、ほぼ毎日のようにカルチャーショックを全身打撲的に受け、終始お気に入りだった7up 片手に「 僕が生まれてくるべき国はアメリカだった!」と若き魂が更に燃え上がる。
1991年 カルチャーショックに起因する全身打撲の後遺症が癒えるのを待たず、加えて英語を勉強していない過去を それはなかったことにして Bellingham High School (ワシントン州)へ高校留学する。Bellingham High School は 田舎の州立高校で当時は留学生の受け入れ体制はなく当然留学生へのサポートは全くなし日本人留学生が僕1人、つまり英語に不慣れな学生が全校生徒の中に約1名といった感じで、登校初日に憧れ抱いていたアメリカ映画のようなキャンパスライフの幻想から完全に目が覚め現実に戻るが、すでに渡米してしまった後「時すでに遅し」で留学当初はアメリカに来てしまったことを深く後悔する。当然中学時代に英語を勉強してない過去、アメリカという国・文化に対する無知さが徐々に現実の生活に影響し始める。
登校初日 英語で書かれたSCHOOL MAPを片手にクラスごとに移動する自分の教室を探すが1限目の教室にたどり着けず学校内で迷子になり校内に常駐している警察官に一時保護される。やっとたどり着いた2限目の教室での授業は先生の言ってることが理解できるはずもなく授業内容どころか出席を取る際に何と返事してよいかも分からず周りの生徒が「イァー」とか何とか言っているので、それを真似る、後々「Here」と返事しているんだと理解する。よくある留学体験記で「アメリカの高校は宿題が多くて難しくて大変だ!Oh my God !」みたいなことを漏れ聞いていたが学校が始まって数ヶ月間は日々出される宿題の内容が難しいのではなく、また宿題の多い少ないの量を把握するどころか、それ以前に「宿題が出されたのかどうかも さだかでないです・・」といった感じで全く歯が立たず悪戦苦闘したり 途方に暮れたりする。ちょうどこの頃、鹿児島の両親から「ケンよ、ひっ翔べ!(留学生荒野を走る)」という本が送られてきて、偶然同じような体験が書かれていたので少しホッとする。
時が経つにつれ 自分の英語力不足の日常生活に及ぼす影響の大きさに遅ればせながら気付き、これではいけないと図書館通いを始める。毎回入室・退室の際にサインをもらっていた妙齢の図書館の先生にお願いして英文法を一から(be-動詞から)教えてもらい猛勉強する。勉強するにつれ英語の面白さに目覚め「なぜbe-動詞は3種類なの?」「listen to the radioて言うのに、なぜwatch TVのTVにはtheが付かないの?」といった素朴な疑問で質問攻めをして煙たがれる。1つの言葉につまずいては立ち止まり、1つ1つ自己解決する。ホストファミリーには発音を徹底的に教えてとお願いし当時7歳のホストシスターに「Really」の発音から なかなか通じない「Water」まで、時には「 何で出来ないの?What the heck! Silly !」と叱責されながら厳しく指導される。結局、失敗や恥をかいただけ英語が身に付くことに気付き、それなら努めて失敗し恥をかいてみようと開き直る。後々、これらの経験がテキスト作りに大いに役立つことになる。
高校留学して数ヶ月が過ぎ 2学期が始まった頃に日本語クラスの先生が産休に入り、日本語クラスの存在すら知らなかった僕はスクールカウンセラーの先生に頼まれて訳も分からず TA (Teacher Assistant) として1人で日本語クラスの学生(約20名)につたない英語で日本語を教えることになる。この頃、やっと友人ができ、半年以上続いた1人孤独なランチタイムに終わりを告げる。留学生活に段々慣れてきたこの頃、ふと「BACK TO THE FUTURE」の登校シーンを実践してみようとホストブラザーにスケボーを借り、ついに念願の夢が叶ったと満面の笑みを浮かべ登校しようとするが2km先の学校までたどり着けず途中からスケボーを脇に抱えて普通に徒歩で登校し、また現実を知る。
1995年 一時帰国後 大学留学の資金を得るために日給のよかったゴミ収集のバイトを始める。給料だけでなく、ゴミとして出されていた英語関連の参考書等を片っ端から拾い集めてTOEFLに向けて英語力の貯金も始める。
この頃初めて、日本には英検というテストがあることを知る。
1996年 University of Hawaii (ハワイ州)へ大学留学する。この大学を選んだ理由は渡航費・学費が全米で一番安かったこと・常夏であること(夏物の服:Tシャツ・半ズボン・サンダルだけで事足りる)にある。高校留学での苦学・度重なる失敗や挫折の末の開き直りの良さにより大学の留学生活は楽しいものとなる。極貧学生でその日の食事をいかに安く、出来ればタダで入手することに苦心する。通学路に自然に生っている果物(パパイヤ、リリコイ、グァバ 等)は狙いを定めて早々に収穫、近くの港では漁師が帰港する頃を狙いルームメイトと釣り糸をたらし 「We ain't got no fish at all, Bro!」(今日は1匹も釣れなかった!)などと申し出て、フレンドリーなハワイアンロコの地元漁師から廃棄される予定の傷付きAhi(マグロ)を手に入れる。日本人留学生だと気付かれないくらい現地に解け込もうと風貌も行動も英語面でも工夫する。
2000年 留学生活を終え「日出づる国 日本に生まれ育ち、日本人で良かった」と骨身に染み、軽度の栄養失調にて帰国。
英語力ほぼゼロから発作的に高校留学し、後の大学留学まで英語(特に英文法)をどうやって覚えてきたかを思い出しながらオリジナルテキスト制作を始める。
いつでも改良可能なように手書きにて製作し(文法78冊・前置詞8冊・句動詞10冊 全96冊)鹿児島市にて伊敷台英語教室を開き、現在に至る。